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JLPT N1 – Reading Exercise 96
私わたしは、一人ひとりの作曲家さっきょくかとして、色々いろいろな機会きかいに、自分じぶんの作曲さっきょくについて語かたってきた。しかしそれは、私わたし自身じしんが、自分じぶんの作曲さっきょくについてよく知しっている、ということを意味いみするわけではない。私わたしの作曲さっきょくには、言葉ことばで説明せつめいできるような組織的そしきてきな方法論ほうほうろんはない。作曲さっきょくするときの私わたしは、単たんに、感覚かんかくに頼たよって、直観的ちょっかんてきに「これが好いい」と納得なっとくできる音おとの連つらなりを探さがし続つづける。そして、「ここが曲きょくの終おわりだ」と感かんじるところに到いたったとき、一ひとつの曲きょくの出来上できあがりとなる。ただそれだけである。「これが好いい」あるいは、「ここが曲きょくの終おわりだ」という感覚的かんかくてきな判断はんだんの根拠こんきょは、説明せつめいできない。そして、そのようにして作つくった曲きょくが何なんであるのかについても、よく分わからないのである。もっとも、私わたしは、自分じぶんの作曲さっきょくについて本当ほんとうに何なにも知しらないというわけではない。そもそも、どうやって何なにを作つくるかということを全まったく知しらずに物ものを作つくることは、不可能ふかのうである。例たとえば、もし、{ガラス}のことも、そして、花瓶かびんというものがどのようなものかも知しらなければ、{ガラス}の花瓶かびんを作つくることはできない。同様に、作曲さっきょくの場合ばあいにも、素材そざいである音おとと、その音おとの構成こうせいの仕方しかたについて知しらなければ、そしてさらに、音楽おんがくというものがどのようなものなのかを知しらなければ、曲きょくを作つくることなどできない。作曲さっきょくをするからには、作曲者さっきょくしゃは、当然とうぜん、それらについて一応いちおう知しっている。(中略ちゅうりゃく)作曲さっきょくは、必かならず、何なんらかの伝統でんとうにおける「基本的きほんてきな」知識ちしきを前提ぜんていとしている。だが、その「基本的きほんてきな」知識ちしきをそのまま(大抵たいていの場合ばあい、無意識的むいしきてきに)受うけ容いれてその範囲はんいで作曲さっきょくする「保守的ほしゅてきな」作曲家さっきょくか達たちがいる一方いっぽうで、前衛主義ぜんえいしゅぎに代表だいひょうされるような、新あらたな音楽おんがくの可能性かのうせいを求もとめる作曲家さっきょくか達たちは、自みずからが出発点しゅっぱつてんとした伝統でんとうにおける「基本的きほんてきな」知識ちしきの外そとに踏ふみ出だそうとする。そして、この伝統でんとうからの踏ふみ出だし――あるいは、「逸脱いつだつ」と言いうべきかもしれない――は、常つねに、実験的じっけんてきな性質せいしつを帯おびる。つまり、非伝統的ひでんとうてきな素材そざいを用もちいることによって、あるいは、非伝統的ひでんとうてきな音構成法おんこうせいほうを試こころみることによって、伝統でんとうに由来ゆらいする「基本的きほんてきな」知識ちしきが告つげる音楽おんがくというものの{イメージ}から逸脱いつだつした未知みちのものが産うみ出だされる可能性かのうせいがあり、そして、この未知みちなるものを相変あいかわらず「音楽おんがく」と呼よぶとしても、それがどのような意義いぎと価値かちをもつ音楽おんがくなのかは、わからないのである。その意義いぎと価値かちを判断はんだんするためには、そこに生うまれてきた音楽おんがくそのものを吟味ぎんみしてみるほかはない。私わたしが、自分じぶん自身じしんの作曲さっきょくについて語かたり得えることは、まさにこのこと、つまり、自みずからが行おこなった実験的じっけんてきな試こころみの結果けっかとして産うみ出だされた音楽おんがくについての吟味ぎんみであり、言いい換かえれば、自分じぶんが行おこなったこととその結果けっかについての自分じぶん自身じしんによる解釈かいしゃくなのである。(近藤こんどう譲じょう『〈音楽おんがく〉という謎なぞ』による)