今月3
日に
亡くなった「ミスター
プロ野球」、
長嶋茂雄さんの
告別式が8
日、
都内で
営まれ、かつてのチームメートや
教え子たちが
別れを
惜しみました
「職業棒球先生」長嶋茂雄先生於本月3日逝世,其告別式於8日在東京都內舉行,昔日的隊友和門生們皆前來悼念,依依不捨地送別。
プロ野球・巨人で輝かしい実績を残し、「ミスタープロ野球」の愛称で親しまれた長嶋さんは、今月3日、肺炎のため89歳で亡くなりました
在職業棒球讀賣巨人隊留下輝煌成就,被親切地稱為「職業棒球先生」的長嶋先生,於本月3日因肺炎逝世,享壽89歲。
8日は都内の斎場で告別式が営まれ、王貞治さんなど巨人でともにV9を果たしたかつてのチームメートや、大リーグでも活躍した松井秀喜さんなど監督時代の教え子など96人が参列しました
8日在東京都內的殯儀館舉行了告別式,曾與王貞治等人在巨人隊共同實現九連霸的昔日隊友,以及在大聯盟也有活躍表現的松井秀喜等執教時期的弟子等,共有96人參加了告別式。
祭壇には長嶋さんの笑顔の写真のまわりに永久欠番の「3」のユニフォームや巨人のチームカラー、オレンジの花が飾られました
在祭壇上,長嶋先生帶著笑容的照片周圍,擺放著永久退休號碼「3」的球衣,以及巨人隊的隊伍顏色——橙色的花朵。
式では長嶋さんとともに「ON」として一時代を築いた王さんが弔辞を読み上げ、「あなたへの弔辞を読む日がこんなに早く来るとは思ってもいませんでした
在儀式上,與長嶋先生一同作為「ON」締造一個時代的王先生宣讀了弔詞:「我從未想過,為你讀弔詞的這一天會來得這麼早。」
存在そのものが
日本人の
誇りでした
グラウンドでは
一挙手一投足が
日本中の
ファンの
心をひきつけました
太陽のように
光を
放っていました
『
長島茂雄』に
戻ってゆっくり
お眠りください」と
話しました
さらに、長嶋さんから熱心な指導を受け巨人の4番、そして球史に残る強打者へと成長した松井さんは弔辞で「監督、きょうは素振りないですよね
此外,松井先生在長嶋先生熱心指導下,成長為巨人隊的第四棒,以及留名棒球史的強打者,在弔辭中說道:「監督,今天沒有揮棒練習吧?」
その目を
見ていると『
バット持ってこい、
今から
やるぞ』と
言われるようで
ドキッとします
當我看著那雙眼睛時,總覺得像是在說「把球棒拿過來,現在就要開始了」,讓我心跳加速。
でも今はその
声を
聞きたいです
きょうは『
ありがとうございました』も『さよなら』も
私は
言いません
今後も
引き続きよろしくお願いします
強烈な
光でジャイアンツの、
日本の
野球の
未来を
照らし
続けてください」と
恩師への
思いを
話しました
請繼續用強烈的光芒照亮巨人隊,以及日本棒球的未來——他這樣表達了對恩師的感激之情。
そして、最後に喪主を務めた次女の三奈さんが挨拶しました
三奈さんによると、長嶋さんは亡くなる間際、脈拍と血圧の数値がゼロと表示されたあとも心電図の波形が動いていたということで、「最後まで長嶋茂雄を貫いた人生を送ったと思います
根據三奈小姐的說法,長嶋先生在臨終之際,即使脈搏和血壓的數值顯示為零,心電圖的波形仍然在跳動,「我認為他度過了一生,直到最後都貫徹了長嶋茂雄的精神。」
意識がなくなっても
諦めず、
そして、
最後まで、
俺は
生きるんだ、
諦めてないぞ、
諦めてないよと
即使失去意識,我也不會放棄,直到最後,我要活下去,我沒有放棄,真的沒有放棄。
父の
心臓の
鼓動が
そう発していると、
私は
思いました
父らしい、
最期まで
諦めない
姿を
見せてくれました
父は、
きっとこの後、
天国でも
日課としている
散歩と
トレーニングを
続けると
思いますので、
晴れた
日には、
皆様どうぞ時々空を
見上げて、
父のことを
思い出していただければと
思います」と
思いをはせていました
我相信父親今後在天堂也一定會繼續他每日散步和鍛鍊的習慣,所以在晴朗的日子裡,希望大家偶爾抬頭仰望天空,想起我的父親。
そして、
王さんや
松井さん
などがひつぎを
運び出し、
最後の
別れを
告げていました
然後,王先生、松井先生等人抬著棺木,把它運了出去,向故人做最後的告別。
王貞治さん「日本にとって残念」
告別式で弔辞を読んだ王貞治さんは「長嶋さんは特別な人で、野球界だけでなく日本にとってなければならない人だった
王貞治先生表示:「對日本來說很遺憾」。在告別式上致悼詞的王貞治先生說:「長嶋先生是特別的人,不僅對棒球界,對日本來說也是不可或缺的人物。」
こういう
日は
来て
欲しくなかった
日本にとって
残念な
日だ
長嶋さんには
苦悩もあったと
思うが、
それを
見せず
常に前向きで、
とにかく動きが
華麗で、かなわないというプレーぶりだった」と
話していました
我想長嶋先生也曾經有過痛苦,但他從不表現出來,總是積極向前,動作非常優雅,讓人覺得無法超越,他的表現就是這樣。
中畑清さん「少しでも恩返しができるよう頑張りたい」
告別式で弔辞を読んだ中畑清さんは「楽しい思い出ばかりが頭の中に湧き出てきて、改めて太陽のような人だと感じた
中畑清先生表示:「我想努力回報一點點恩情。」在告別式上致悼詞的中畑清先生說:「腦海中不斷浮現的全是快樂的回憶,再次感受到他真是一個像太陽般的人。」
これだけ
周りの
人たちに
笑顔を
与えた
人はいない
つらいけど『
まだ頑張れ
いつまでも
下を
向いているんじゃない』と
遺影が
そう語ってくれているような
気がした
少しでも恩返しが
できるよう、
私の
人生の
中で
頑張りたいと
思う」と
話していました
「我想在我的人生中努力,哪怕只是一點點,也希望能報答您的恩情。」
松井秀喜さん「まだまだ いろいろ問いかけたい」
告別式で弔辞を読んだ松井秀喜さんは「監督なので、笑顔で送り出したいということだけを意識していた
松井秀喜先生:「我還有許多想要詢問的事」在告別式上致悼詞的松井秀喜先生說:「因為您是監督,我只想著要以笑容送您最後一程。」
私のジャイアンツとの
縁、ジャイアンツで
過ごした
日々のすべてが
監督と
歩んだ
道だった」と
話しました
我與巨人隊的緣分,以及在巨人隊度過的每一天,都是與監督一同走過的道路。
喪主を務めた次女の三奈さんが通夜のあいさつで披露した『監督やるやる詐欺』については「三奈さんとは、監督にいつまでも元気でいてもらうために何がいいかというのをたまに話していたので、その中でいろいろなエピソードが出来てきたんだと思う」と振り返りました
三女三奈在守夜致詞時提到的「一直說要當監督卻沒做」這件事,他回顧道:「我和三奈偶爾會討論,有什麼方法能讓監督一直健康長壽,於是就產生了各種各樣的故事。」
そして最後に「たくさんのことを私に授けてくれ、たくさんの時間を共有してくださった
最後,感謝您教會了我許多事情,也與我分享了許多時光。
自分の
中ではまだまだ
監督に
いろいろ問いかけたいと
思っているので、『
これからも
よろしくお願いします』という
気持ちでいる
我心裡還有很多想要向導演請教的地方,所以懷著「今後也請多多指教」的心情。
監督が
何を
望んでいるか、
心の
中で
聞いて
答えを
出していきたいし、
これからの
監督との
対話の
中で
監督が
導いて
くれるんじゃないかと
思っている」と
時折、
笑顔を
見せながら
話していました
我想在心裡聽取導演的期望並找出答案,也覺得在今後與導演的對話中,導演會引導我。」他一邊說著,一邊時不時露出笑容。
王貞治さん弔辞【全文】
長嶋さんとともに「ON」として一時代を築きV9を果たした王貞治さんの告別式での弔辞です
王貞治先生的悼詞【全文】這是王貞治先生在告別式上的悼詞,他與長嶋先生一同作為「ON」締造了一個時代,並實現了九連霸。
長嶋茂雄さん
あなたへの弔辞を読む日がこんなに早く来るとは思ってもいませんでした
あなたは日本の健康優良児でした
存在そのものが、日本人の誇りでした
グラウンドでは、一挙手一投足が、日本中のファンの心を惹きつけました
日本中があなたを追いかけました
大変だったと思いますが、あなたは嫌な顔一つせず、常に明るく存在していました
我想這一定很不容易,但你始終面帶笑容,總是充滿朝氣地陪伴在大家身邊。
太陽のように光を放っていました
本当に特別な存在でした
そんなあなたに私は迷惑ばかりかけていました
昭和34年、私が入団した年の宮崎キャンプで同室にさせられ、世間知らずの私は、部屋の片付け、布団の上げ下げなどすることもできず、挙げ句に、寝相は悪いは、いびきはかくはで、迷惑をかけっぱなしだったようで1週間で部屋を替えさせられましたが、その間、長嶋さんは一言も文句を言いませんでした
在昭和34年,也就是我加入球隊的那一年,在宮崎的春訓營裡被安排和長嶋先生同一個房間。當時我還不懂世事,連打掃房間、鋪床收床這些事都做不好,而且睡相很差,還會打呼嚕,總是給對方添麻煩。結果一週後就被換了房間。但在這期間,長嶋先生一句抱怨的話都沒說。
アメリカのベロビーチでキャンプした時、ロサンゼルスで1泊してフロリダに飛んだんですが、その出発の日の朝、私が寝坊してしまい、長嶋さんが天窓から部屋に入ってくれて、私を起こし、荷物をまとめてくれたので、飛行機に乗り遅れることはなく済んだこともありました
有一次在美國維羅海灘露營時,我們在洛杉磯住了一晚後飛往佛羅里達。出發當天早上,我睡過頭了,長嶋先生從天窗進到房間裡叫醒了我,還幫我整理行李,結果我們沒有錯過飛機。
私にとっては、長嶋さんは超普通の人でした
長嶋さんは私に普通人として接してくれました
長嶋さんには頭が上がりませんでした
足を向けて寝られない人でした
無法對那個人無禮地睡覺(直譯:無法把腳朝向那個人睡覺)。
そんな大恩人の長嶋さんとのこんなお別れは、到底受け入れられません
皆さんも同じだと思います
しかし、そうは言っても、現実に引き戻されてしまいます
あとは、静かに、静かにお見送りするのみです
長嶋さん、ありがとうございました
あなたとの六十有余年、私にとっては忘れることのできない貴重な年月でした
與你共度的六十餘年,對我來說是無法忘懷的珍貴歲月。
感謝するしかありません
89年間、よくぞ頑張ってくれました
日本人のために頑張ってくれました
ありがとうございました
安らかにお眠りいただくことを願うのみです
『長島茂雄』に戻ってゆっくりとお眠りください
さようなら
令和7年6月8日
王貞治
中畑清さん弔辞【全文】
長嶋さんが監督時代に選手としてプレーし、2004年のアテネオリンピックでは病気で倒れた長嶋さんに代わって指揮をとった中畑清さんの告別式での弔辞です
中畑清先生的悼詞【全文】這是中畑清先生在告別式上的悼詞,他曾在長嶋先生擔任監督時期作為選手出場,並在2004年雅典奧運會時代替因病倒下的長嶋先生擔任指揮。
監督、親父さん、そしてミスター
長い間ありがとうございました
あなたは私の人生の全てです
思い出は山ほどあります
忘れられないのは、伊東キャンプです
監督と二人で交わした個人ノック、忘れられません
和教練兩人一起進行的個人敲擊練習,我永遠無法忘記。
ノックの天才ですね
飛び込んでも、飛び込んでも絶対捕れない距離感、それを打ち分ける天才です
就算跳進去、再怎麼跳進去也絕對抓不到的距離感,他就是能把這種球打出來的天才。
捕れない
それに向かって、「この下手くそ、下手くそ」
私はノッカーに「この下手くそ、下手くそ」と言い返しました
たまに打ってくれるサービスボール
うれしかったです
捕って喜んで、監督めがけて投げ返していました
そのボールに「ヒョー、ヒョー」と叫びながら踊りまくる監督との対決が忘れることができません
我無法忘記和那個一邊大喊「喵~喵~」一邊瘋狂跳舞的導演對決的情景。
私の野球人生で最高の思いです
夢の時間でした
そして、伊東キャンプの最終日、我々を苦しめた馬場平でのランニング
然後,在伊東露營的最後一天,我們在讓我們吃盡苦頭的馬場平進行跑步。
馬場平というのは急な坂道が続いていく
そして折り返し、緩やかな坂道を帰るという一周するランニングコースです
然後折返,沿著緩緩的坡道回去,這是一條繞一圈的跑步路線。
厳しいです
きつかったです
私は最後のチャンスだと思い、篠塚に「シノ、何とか監督走らせろ
我認為這是最後的機會,於是對篠塚說:「篠,把監督想辦法讓他跑起來。」
1
回走らせろ」とけしかけたのは
私です
そしてシノは普段にはないような、監督のそこまで行ってわざわざ、「偉そうに腕組んで見てんじゃねえよ
然後篠平時不會這樣,特地走到導演那裡說:「別一副很了不起的樣子抱著手臂看著啊。」
1
回、
自分で
走ってみろ」と
すぐにです
それに対して、笑顔で挑発に乗ってくれましたよね
ペッペッと両手に唾を吐いて、「よーしっ」と一気にあの坂を登り始めたんです
他往雙手上吐了口唾沫,然後說了聲「好嘞!」就一下子開始爬那個坡了。
一気に登り始めて姿が見えなくなり、しばらくして、帰ってきてくれるのかなと思いましたけど、なかなか帰ってこない
一下子就開始往上爬,身影很快就消失不見了,過了一會兒,我想著他是不是會回來,但他遲遲沒有回來。
やっと姿が見えた時には、もう息絶え絶え
ケツ割れして、子どもがうんこ漏らしたようなそんな感じで、ヘタヘタになって帰ってくる
屁股裂開,就像小孩子拉肚子一樣,整個人癱軟無力地回來。
その姿を見て、我々選手は長嶋コールを始めました
「長嶋、長嶋、長嶋」
ゴールした時に、初めて親父さん、ご苦労さまでした
當我到達終點時,我第一次對父親說:「爸爸,辛苦了。」
そして、雲の上にいた監督、長嶋茂雄が、我々のところまで降りてきてくれたのかなという感情を持ちました
然後,我感覺好像一直在雲端上的導演長嶋茂雄,特地降臨到我們身邊。
そして、みんなが長嶋ファミリーになった瞬間ではなかったかなという気がします
然後,我覺得那或許就是大家都成為長嶋家族成員的那一刻吧。
ありがとうございました
そして、もう一つは、ミスター
この言葉に本当に憧れを感じていました
一度でいいから本人に向かって「ミスター」と呼びたかったです
そのチャンスが、現役が終わり、引退した後に、監督とゴルフを、千葉県のゴルフ場で一緒にさせていただくことがありました
那個機會是在現役結束、退休之後,曾經有機會和監督一起在千葉縣的高爾夫球場打高爾夫。
きょうがチャンスだ、そう思って、面と向かって言うのは勇気が要ります
背後から背中越しに「ミスター」と声かけたら、「おお、どうした、キヨシ」と満面の笑みで振り返ってくれました
當我從背後隔著背部叫了一聲「先生」,他滿臉笑容地回頭說:「哦,怎麼了,清志?」
その時に子どものような気持ちで、私は心臓が止まるぐらい感動し、喜んだことを覚えています
那時我像個孩子一樣,記得自己感動到心臟都快停止了,非常高興。
それ以来、「ミスター、ミスター」と呼ばせていただきました
ミスターの凄さ、いろいろあります
そんな中で、私の中で忘れられないのは、ミスターは万人に対し、誰にでも対し、心優しい笑顔を見せながら対応する、言葉をかける
在這之中,我無法忘記的是,先生總是對每一個人、對任何人,都以溫柔的微笑來應對、交談。
あの姿、私は謙虚に、ビッグになればなるほど謙虚に生きろよ、ということを教わったような気がします
那個樣子,讓我覺得自己學到了一課,就是越是偉大的人,越要謙虛地生活。
それを手本に、これからも頑張っていこうと思います
本当にありがとうございました
頑張るだけ頑張ってきた89年だと思います
ここで一息入れてください
ゆっくり休んでください
そしてまた、その満面の笑みで国民の前に出てきてくれる夢を見させてください
然後請讓我們再次做夢,夢見他帶著那燦爛的笑容出現在國民面前。
安らかにお眠りください
本当に長い間ありがとうございました
松井秀喜さん弔辞【全文】
長嶋さんと深い師弟関係を築き、巨人や大リーグで活躍した松井秀喜さんの告別式での弔辞です
松井秀喜先生悼詞【全文】這是松井秀喜先生在告別式上的悼詞,他與長嶋先生建立了深厚的師徒關係,並在巨人隊及大聯盟中表現傑出。
監督、きょうは素振りないですよね
その目を見ていると、「バット持ってこい
今から
やるぞ」と
言われそうで
ドキッとします
でも、今はその声を聞きたいです
ドラフト会議で私を引き当ててくださり、満面の笑みで親指を突き上げてくれました
在選秀會議上抽中我,然後滿臉笑容地豎起大拇指給我看。
タイガースファンだった私は、心の中でちょっとズッコケました
しかし、その後、すぐに電話で「松井君、待ってるよ」と言ってくださり、あっという間に私の心は晴れました
但是,之後他馬上打電話跟我說:「松井君,我在等你喔」,讓我的心情立刻豁然開朗。
監督はひとたびユニホームを着てグラウンドに出ると、強烈な光を発し、私と二人で素振りをする時は、バットマン、長嶋茂雄になりました
一旦監督穿上球衣走上球場時,就會散發出強烈的光芒,當我們兩個人一起練習揮棒時,他就變成了蝙蝠俠、長嶋茂雄。
それが私の日常でした
監督が引退された年に生まれた私は、監督の現役時代をともに過ごした方々と同じ気持ちになりたくてもなることはできません
我出生在導演退休的那一年,所以無論多麼想要,也無法和那些與導演一同經歷現役時代的人們產生同樣的感受。
その時代を生きていません
ですが逆に、私はその野球の神様、長嶋茂雄というものを、肌で感じていないからこそ、普段、普通の自分自身で接することができました
但是相反地,正因為我沒有親身感受到那位棒球之神——長嶋茂雄,所以我才能夠以平常、普通的自己去與他接觸。
それが私にとって、非常に幸運だったと思っております
監督を退任する日、私は最後の素振りだと思って、振っている途中、涙が止まりませんでした
在卸任監督的那一天,我以為那是我最後一次揮棒,在揮棒的途中,眼淚止不住地流了下來。
これが最後の素振りになると思ったからです
「何泣いてんだ
タオルで
涙ふいて、ほら
振るぞ」
そう声をかけてくださいました
それが最後だと思っていましたが、翌日もやりましたね
そして、次の年も次の年もやりました
私は長嶋茂雄から逃げられません
これからもそうです
それが私の幸せです
監督、私は現役時代に一度だけ監督にお願いしたことを覚えていますか
私はセンターを守っておりましたが、「監督、どうせなら私、サードやらしてくださいよ」とお願いしました
我本來是守中堅的,但我跟教練說:「教練,既然如此,讓我去守三壘吧。」
そしたら、「お前はサードじゃないよ
お前は
やっぱりセンターだ
俺は
お前をジョー・ディマジオにしたいんだ」とおっしゃってくださいました
私は全くピンときておりませんでした
ある日、素振りで監督のご自宅にお邪魔した時、私はそこにジョー・ディマジオのバットとジョー・ディマジオの大きな写真があることに気づきました
有一天,我去教練家裡練習揮棒時,發現那裡有一支喬·迪馬喬的球棒和一張喬·迪馬喬的大型照片。
見逃しませんでした
監督は本当にジョー・ディマジオが好きなんだなと思って、また、その選手のようになれと言ってくれたことに、本当にその時、幸せに感じました
我真的覺得導演非常喜歡喬·迪馬喬,而且他還告訴我要像那位選手一樣,當時我真的感到非常幸福。
それから私は喜んでセンターが大好きになりました
その時、監督は、私がジョー・ディマジオと同じユニホームを着て、同じグラウンドでプレーすることを夢に思っていなかったと思います
那個時候,教練大概沒想到我會穿上和喬·迪馬喬一樣的球衣,在同一個球場上比賽。
もちろん、私も思っていませんでした
私が引退して、監督に挨拶に行った時、「監督がジョー・ディマジオって言ったから、私、ヤンキースに行ったんですよ」って言ったら、この笑顔を見せてくださいました
當我退休去向監督問候時,我說:「因為監督說了喬·迪馬喬,所以我才去了洋基隊。」他就露出了這樣的笑容。
その時、初めて私は、大好きなジャイアンツを去ることになりましたが、これでよかったんだと思いました
那時,我第一次離開了最喜歡的巨人隊,但我覺得這樣做是對的。
そして、今も遠い離れた場所にいます
日本に帰ってくるたび、監督にごあいさつに行くと、監督の言いたそうなことを、言おうとするのに言わない
每次回到日本,去向導演問候時,導演總是有話想說,卻欲言又止。
でも、その気持ちはいつも受け取っておりました
これからも監督が、なぜ私だったのか、なぜ私にたくさんのことを授けてくださったのか
今後導演也會思考,為什麼是我,為什麼把那麼多事情交給了我。
その意味を、その答えを、自分自身が心の中で、監督に問い続けます
今度は、私が監督を逃がしません
ですから、今日は「ありがとうございました」も、「さようなら」も、私は言いません
所以,今天我既不會說「謝謝大家」,也不會說「再見」。
今後も引き続き、よろしくお願いします
そして、その強烈な光で、ジャイアンツの未来を、日本の野球の未来を照らし続けてください
然後,請用那強烈的光芒,持續照亮巨人隊的未來,以及日本棒球的未來。
喪主 長嶋三奈さんあいさつ【全文】
喪主を務めた長嶋さんの次女、三奈さんのあいさつです
喪主長嶋三奈小姐致詞【全文】擔任喪主的長嶋先生的次女,三奈小姐的致詞內容如下
本日はお忙しいところ、また、遠路にもかかわらず、父、長嶋茂雄の葬儀に足をお運びくださいまして、誠にありがとうございました
今天在百忙之中,還特地遠道而來,參加家父長嶋茂雄的葬禮,謹此致上誠摯的感謝。
2004年、脳梗塞で倒れてからは、自分との闘いを21年間続けてきました
自從2004年因腦梗塞倒下後,他已經與自己奮戰了21年。
私が見ていても胸が締めつけられるぐらい苦しい治療をたくさんしてきました
即使是我在旁邊看著,也感到胸口緊縮,經歷了許多非常痛苦的治療。
食事も食べられず、会話もできない日も何日もありました
でも、父は、野球を全うしたそのままの力で、病と真正面から向き合って、決してあきらめることはしませんでした
但是,父親用他在棒球上全力以赴的那股力量,正面面對疾病,從未放棄過。
6月3日、朝6時過ぎに、病室におりまして、脈拍と血圧の数値が0になったんですが、よく見ると、波形が、ピッピッと山なりの波形が、ずっと続いているんです
6月3日,早上6點多的時候,我在病房裡,當時脈搏和血壓的數值都變成了0,但仔細一看,波形還是持續出現著,一直有像山一樣起伏的波形「嗶嗶」地顯示著。
看護師さんに「これ、どういうことなんですか」と聞きましたら、「監督が心臓を動かそう、動かそう、動かそうとしている振動なんだと思います
我問了護理師「這是怎麼回事呢?」她回答說:「我想這是導演試圖讓心臟動起來、動起來、動起來時產生的振動。」
私、
こんなの
見たことありません」
看護師さん、主治医の先生方、最後まで驚いていました
最後まで長嶋茂雄を貫いた人生を送ったと思います
意識がなくなっても諦めず、そして、最後まで、俺は生きるんだ、諦めてないぞ、諦めてないよと
即使失去意識,我也不會放棄,直到最後,我要活下去,我沒有放棄,真的沒有放棄。
父の心臓の鼓動がそう発していると、私は思いました
父らしい、最期まで諦めない姿を見せてくれました
父は、きっとこの後、天国でも日課としている散歩とトレーニングを続けると思いますので、晴れた日には、皆様どうぞ時々空を見上げて、父のことを思い出していただければと思います
我相信父親今後在天國也一定會繼續每天散步和鍛鍊的習慣,所以在晴朗的日子裡,還請大家偶爾抬頭仰望天空,想起我的父親。
そして、父はとても耳が良いので、松井さんも、もしよろしければニューヨークから素振りをしていただければ、父もしっかりと聞いていると思います
而且,我父親的聽力非常好,所以松井先生,如果您願意的話,從紐約揮棒練習的聲音,我父親應該也能清楚地聽見。
どうぞ、これからも父と松井さん、二人だけの会話を、素振りを続けていただければと思います
請今後也請繼續讓父親和松井先生兩人之間的對話和揮棒練習持續下去。
また、この度、葬儀委員長を務めていただきました読売新聞グループ本社代表取締役社長、山口寿一さまには、父が亡くなる前日2日に病室に来ていただき、また翌日3日の早朝にも駆けつけてくださり、私達、家族だけではなく、スタッフにも「体は大丈夫ですか」と温かいお声をたくさんかけていただき、本当にお支えいただきました
此外,這次擔任葬禮委員長的讀賣新聞集團本社代表董事社長山口壽一先生,在父親去世前一天(2日)特地來到病房,隔天3日清晨也趕來探望。不僅對我們家人,對工作人員也多次溫暖地詢問「身體還好嗎?」給予我們極大的支持與鼓勵,我們真的非常感謝。
「感謝」という2文字だけでは到底足りないんですが、山口社長、そして読売新聞グループ本社社員の皆様、読売巨人軍社員の皆様、家族・親族一同を代表しまして、心より、心より、感謝申し上げます
僅僅用「感謝」這兩個字實在遠遠不夠,但我還是要代表山口社長、讀賣新聞集團本社的各位員工、讀賣巨人軍的各位員工,以及我的家人和親屬們,從心底、由衷地表示感謝。
出棺に先立ちまして、お礼を申し上げ、ごあいさつと代えさせていただきます
本日は誠にありがとうございました