ラテン文字や漢字、数字、さらには色彩を識別する高度な認知能力を有していたチンパンジー「アイ」は、霊長類における知性の研究分野において、計り知れない貢献を果たした存在として国際的に認知されている。1976年、西アフリカ・ギニアの森林地帯に生を受けたアイは、生後間もなく京都大学霊長類研究所へ移送され、「愛」を意味する「アイ(Ai)」と命名された。彼女は、チンパンジーの認知機能を解明するための最初の研究個体となり、この取り組みは後に「アイ・プロジェクト」として広く知られるに至った。
研究は室伏きよ子氏および松沢哲郎教授によって開始され、専用キーボードを備えたコンピューターを介して、アイおよびアキラ、マリの2頭を対象に、記憶力や数量概念、色彩認識など多岐にわたる実験が展開された。幼少期のアイは、赤・緑・青といった基本的な色の区別を習得したのみならず、次第にそれぞれの色を表す漢字を記憶し、提示された色に対応する漢字を正確に選択できるようになった。さらに、「桃」という漢字を見て、適切なピンク色を選ぶことも可能であったという。
松沢教授が2021年に公表した研究成果によれば、アイは5歳時点でアラビア数字が数量を示すことを理解し、数字を識別する能力を有した最初のチンパンジーとなった。加えて、6歳半にはラテン文字の学習が始まり、最終的にはアルファベット大文字26文字すべてを識別可能となった。
1989年10月3日夜には、研究グループを驚愕させる出来事が発生した。アイは飼育施設から自力で脱出し、鍵を用いて他のチンパンジーやオランウータンの檻を開けたとされる。研究生によって、鍵を口にくわえて歩くアイが発見され、直ちに松沢教授へ連絡が入った。その後、アイは研究所の食堂に入り込み、水道の蛇口をひねって洗剤を泡立てて遊ぶ様子や、やかんをコンロに置いて火をつけようとする行動まで見せたという。
2026年1月9日、京都大学ヒト行動進化研究センターは、アイが49歳で永眠したことを公表した。死因は高齢に伴う多臓器不全であり、長年にわたり献身的に世話を続けてきた飼育スタッフに見守られながら、静かにその生涯を閉じた。長年にわたり霊長類知能研究に多大な影響を与えたアイの存在は、今後も多くの研究者によって語り継がれていくに違いない。